ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))

 評定:A-

 東工大の先生が書いた人文的情報社会論。
 いわゆるデルファイ的な未来予測に対して批判的な立場から、「論理的に」未来推論を試みようとしたもの。そのスタイル自体も非常に面白いし、普通だったら10年前の情報社会論なんかまずめったに読む気にならないものだけれど、10年前の「まっとうな」未来推論を今読めるということはある意味で非常に有難い。
 というのもいままさしくそういう仕事をまかされているということがあるんですけれども、10年前に行ったそういう仕事が10年後の今どう読まれ、どう受け取られているのかということを知るのは非常に重要なことなのです。もちろん「Eメールを日常的に利用するライフスタイルが一般人に受け入れられるわけがない」というような指摘も見られるけれど、そういう部分すらも敬意を払って読まれるべきなんだろう。
 10年後、どうなるのかを「予測」することはもはや完全に不可能。そして彼が行ったような、論理的な推論には一定の有効性があることを心から認めつつ、我々はもう一歩先に行かなければならない。
 「あまりにも自由になりすぎたがために」、我々にはもはや未来を自分たち自身で描き、実現していくこと「しか」残されていない。アラン・ケイの言葉は、今後より一層の真実性をもって語られることになるだろう。デザイナーは誰か、アーキテクトは誰か。それを決めるのはデジュレからデファクトへと完全に移行するのか、あるいはそれとも宮崎/宮台が指摘するようにコスモポリタン的な何かへと変貌を始めるのだろうか。主体は、客体は、手法はどのように変わっていくのだろうか。何がボトルネックであって、何が牽引役となるのであろうか。理論家(象徴界)にとっても、実証者(消え行く媒介者)にとっても、実務家(現実界)にとっても、行うべき仕事は増えるばかりである。あるいはまた、その仕事すらも機械はとって変わるのだろうか。

 問答を始めるとキリがないのでこのへんで。まあ、ぜひ読んで。

追記:いぜん本書を紹介していらしたeboshiさんのブログにトラバうたせていただきまーす。
eboshilog: ノイマンの夢・近代の欲望 情報化社会を解体する

技術ベースで未来を予測するのって楽しいけれど、具体的な実装手段や、それを実際に可能にする制度作りについてまで考え始めると、そのほとんどが破綻してしまう。社会科学に関心をもつものとして、自戒の意味も含め、記憶にとどめておきたいと思った。

 そうそう。実現可能な制度・技術・ビジネスモデル抜きに未来構築はありえないはずです。そしてそれ以上に、そうやって未来を見通すところから、著作権制度をはじめとする一連の制度の次の姿というのははじめて見えてくるはずなのです。