自生的秩序の媒介としてのプラットフォーム


 H野センパイから「日本で(池田さん的な)制度設計でうまくいった例ってどんなのがある?」という非常に興味深い問いかけを頂いたので書いてみます。だいぶ積極的に脱線していますがそのほうが面白いので。


■オープン/クローズド、そして「天才」


 直感的な答えとしては比較的少ないなという感じなんですが、ちょっと自分の専門に近い情報通信政策で考えてみると80年代以降のNTT解体にはじまる情報通信自由化なんかは面白いんじゃないかと思います。


 それまで電電公社一本に絞られてきた情報通信インフラを今でいうKDDIソフトバンクの三社競合体制にして、いろいろな紆余曲折もありながら世界最先端のブロードバンド大国にしたと。制度設計=プラットフォーム設計という文脈で語るのが僕の常なんですが、いわゆる藤本先生/國領先生的な「インテグラル/オープン」アーキテクチャのプラットフォーム設計の基本的な軸の中で、(限定的であはりますが)オープン化の制度設計が比較的うまく行った事例の一つなのではないかと思います。


 これって地域発展におけるパットナム/フロリダの「伝統重視のソーシャルキャピタル」と「オープン性重視のクリエイティブ・キャピタル」の議論と完全に符合していたりしてすごく面白いんですが、長くなりそうなのでまたの機会に。
 ただ、ひとつだけこの議論から抽出すべき重要な視点は、いわゆる「何かの発展」といった場合に重要なのは、オープン/クローズドとは別の位相に存在する「天才」の役割です。コンテンツ産業でいったらそれこそ一人の「天才」が社会を一変させてしまうのは周知の通りですし、さらにいうと産業創出による地域発展という意味では、シリコンバレーでペイジ/プリンやズッカーバーグら(サクセニアンの『現代の二都物語』的な社会環境に依存するところも当然論じられなければならないですが)きわめて少数の「天才」が果たした役割というのは看過できないはずです。


 そういう「(ポジティブな意味でのフランク・ナイト的な)不確実な天才」の創出という意味では、オープン/クリエイティブ・キャピタルな環境に比較的分があります。この点を理論/実証の両面から強く論証しているのが、青木昌彦氏らによる進化ゲーム理論(群淘汰メカニズム)に基づく社会/経済観です。変化の激しい社会環境と適合性の高い「天才」を生み出すためには、やはり多様性はあるに越したことはありません。
 日本の情報通信産業の発展とブロードバンド大国の実現においても、諸々異論はあるものの孫正義という「天才」の果たした役割というのは「自由化」以上に評価されて然るべきなのかもしれませんね(この文脈ではシュンペーターの起業家論も念入りに論じる必要がありますが)。


■自生的秩序、そして発見のプロセス


 つづきます。ここまでは「インフラ」という比較的大資本の分野で制度設計の成功の一例を簡単に論じてみたわけですが、やはり日本の歴史を鑑みるに「オープン・プラットフォーム」的制度設計によるイノベーションの創出がまだ苦手だなという意識はどうしても拭い去ることはできません。この理由としてまずやはり考えられるのは、「行政指導」主体ではない「ルール=制度設計」主体の政策のあり方についてまだ比較的不慣れであるという点、そしてそれが意外とテクニカルに難しいものであるという点を挙げることができます。


 「制度設計」といったときに一番最初に引かれるべきは、やはり言うまでもなくハイエクです。ハイエクは晩年の『法と立法と自由』の中で、コモンローの重要性を指摘して「法は恣意的に与えられるものではなく、発見されるべきものである」という重要な主張をしています。いわゆる自生的秩序というやつです。
 大雑把に噛み砕いて言えば、「法律とは、行政官や政治家が『この国はかくあるべし』といって恣意的/計画的に定められるべきものではなく、現実社会における人々のインタラクションから非公式な形で生み出される慣習や規範等を必要に応じて形式化するものでなければならない」ということです(ハイエクは義務論的にも帰結主義的にも同様の議論を展開しているようですが、僕は基本的に帰結主義者です)。


 この点において重要な貢献を行なっているのが、「コモンズのガバナンス」の研究で著名なエリノア・オシュトロームです。オシュトロームは、1990年の"Governing the Commons"等の一連の研究の中で、「コモンズ=共有地」、すなわち牧草地や水源などといったいわゆる入会地のような所有権の対象にはならないコミュニティにとっての不可欠な資源をどのようにガバナンスするべきかという点に関しての実証分析を積み重ね、下記のような指摘を行なっています。


1、コモンズのガバナンスのあり方は「国によってルールを決める」方法がうまく行くことはきわめて稀であり、
2、その共同体の中で住民自身が作り上げてきたルールにできるだけ従うべきである。なぜならば、牧草地にしろ水源にしろ、その地域の雨量等といった天候的要因、あるいはその他の慣習等との密接な関係を考慮する必要があるため、中央集権的にルールを定めることはほぼ不可能であるから。ハイエクの「社会における知識の利用」の議論と強く符合することは言うまでもありません。
3、さらに言うと、政府というものにもしも役割があるとすれば、それは住民同士の秩序形成を円滑化するための取引費用の提言にあるのではないか。これはロナルド・コースのいわゆる「コースの定理」との関係でも重要な論点です。


(氏の著書は今のところ一冊も邦訳がないのが残念ですが、公文先生の一連の情報社会研究の中で何度か言及されています。)


 こうした、「取引費用の低減による自生的秩序の形成促進」、そして「発見のプロセスとしての制度設計」という逐次的なガバナンスのあり方は、大陸法の影響の大きい日本国の中では比較的困難なのかもしれません。特に、そうしたガバナンスのあり方がもっとも求められているであろうインターネットの世界において、代表的P2Pソフトの開発者を著作権審議会のメンバーにせず、刑事告訴という手段で開発を中止させてしまうというのは、少なくともこの文脈においてはあまり適切な手段とは言えないのかもしれません。


■「秩序」と「発見」の重層的なプラットフォーム


 このような意味において、つまりその「メカニズムを理解し、設計行為につなげる」理論的/実証的議論を行う場合、「(政策的な)制度」と「(経営学的な)プラットフォーム」の間にあまり深遠な相違はなく、むしろその共通点こそ積極的に見出され、活用されるべきであると言えます。それこそが我々学派が政策学と経営学を意図的に越境して研究の対象としている最大の理由です。


 論点は非常に多岐に渡りますが、そのときに現在非常に興味深いのが、H野先輩も言及されるいわゆる「ソーシャルタギング」の設計です。これははてなの各種サービスやニコニコ動画のようないわゆるWeb2.0サービスの中でよく知られる、ユーザーがそのコンテンツに対して自らの分類観に基づきジャンルや「これはおもしろい」「これはひどい」などのタグを付け他のユーザーと共有し、情報整理を行なうための仕組みです。これは典型的な「取引費用の低減による自生的秩序の形成促進」の一例と言うことができます。


 これをもう一歩進め、先ほどのいわゆる「発見のプロセスとしての制度設計」という観点から見ると、2ちゃんねるの情報整理の秩序形成メカニズムというのはきわめてうまくできているなと見ることができます。あれほど雑多な「情報の海」の中で、その倫理的な是非はともかくとして、継続的なコミュニケーションが行なわれ、さらに言えば一定の広告=経済的価値を生み出し続けているというのは驚くべきことです。そのメカニズムは(ものすごく単純化して言えば。誰かが書いてるかもしれませんが)大きく二つのプロセスに分けることができます。


1、誰もが「タギング」を行なうことのできる、いわゆる「スレッドのタイトル」です。新しい話題やカテゴリーなどはまずこの形式でプラットフォーム上に出現します。場合によっては2、3の書き込みだけでスレッドはアーカイブに落ちますし、あるいは場合によっては1000を超えるシリーズへと展開されていきます。
2、ごく少数の管理者のみが行なうことのできる、新規の「板」の創設です。これは多くの場合、上記のユーザーの自生的なやり取りの中できわめて多くの参加者を継続的に集めた場合に創設されます。たとえばインターネット全体を扱う板から、「ダウンロード板」や「オークション板」が生まれてくるように。


 これぞまさしく、重層的なプラットフォーム設計に基づく「取引費用の低減による自生的秩序の形成促進」、そして「発見のプロセスとしての制度設計」ということができるでしょう。私自身は2ちゃんねるがあれだけの成功(?)を収めた理由として、このような重層的かつ逐次的な制度設計思想があると考えています。


■とりあえず以上です。


 そのうちボールドウィン/クラークやクリステンセンとの関係でもやります。